2023年春の連続テレビ小説『らんまん』が楽しみでたまらない、植物好きのぐるりです。
この記事では、ドラマスタートに向けて、予習と称し(2022年11月現在)、モデルとなる植物学者の牧野富太郎(まきのとみたろう)の魅力的な人物像に迫ります。
植物学者・牧野富太郎とは
牧野富太郎(1862~1957)は、高知県出身の植物学者です。「日本植物学の父」と呼ばれ、牧野富太郎が生まれた4月24日は「植物学の日」とされています。
現在の高知県高岡郡佐川町に生まれ、幼少期より植物に深い興味を持っていました。
新種のヤマトグサを発表したことで、日本人で初めて学名をつけた人物でもあります(それまでは、日本で新種が見つかっても海外の学者によって学名が付けられていました)。
その後も、数多くの新種を発見し、命名した植物は1,500種類以上。さらに、94年の生涯で収集した植物標本は、なんと約40万点。描いた植物図は約1700点とも言われています。
富太郎が作り上げた図鑑は、今日の植物図鑑の基本となっており、中でも研究の集大成といえる『牧野日本植物図鑑』は、現在も販売されているロングヒットの図鑑です。
晩年は、全国各地を巡り、植物の知識の普及活動につとめました。
牧野富太郎がモデルの朝ドラ『らんまん』とは
NHKの2023年春からスタートする朝の連続テレビ小説『らんまん』は、植物学者・牧野富太郎をモデルとした、天才植物学者・槙野万太郎(まきのまんたろう)の波乱万丈の物語。激動の時代の中、ただひたすら草花を愛し、「日本の植物図鑑をつくる」という夢のため情熱を燃やし続けます。
<メインキャスト>
槙野 万太郎 役 ・・・神木 隆之介
妻・寿恵子 役 ・・・浜辺 美波
物語は原作なしのフィクションですが、モデルの牧野富太郎の生涯がどのように描かれるのか、とても楽しみです。きっと植物もたくさん登場するのではと期待しています。
富太郎がロシア行きを考えていたことに驚きました。もし、ロシアに行っていたら・・・どのような人生になっていたでしょうか。
牧野富太郎が命名した植物
富太郎は90歳頃まで全国の野山を歩き、植物の採集をおこなっていたそうです。
(足腰が尋常じゃなく強い)
生涯で命名した植物は、なんと約1500種類・・・
ムジナモ、スエコザサ、ボタンキンバイ、ネモトシャクナゲ、キヨスミミツバツツジ、チョウノスケソウ、アテツマンサク、ニジガハマギク、ノカイドウ、ヒザオリザサ、ヤマトグサ、オモゴザサ、イワヤシダ、キシツツジ、カンツワブキ、ムカデラン など。
本当にたくさんの植物を発見し、命名しました。
中でも、印象深い名前と言えば、スエコザサではないでしょうか。
妻・寿衛(すえ)の病が重くなった頃、富太郎は仙台で新種のササを発見し、これに「スエコザサ」と命名しました。富太郎は、植物を命名する際に、私情をはさむことを嫌っていましたが、寿衛への感謝の気持ちや、寿衛の名前を残したいという気持ちがあったのではないでしょうか。 学名の決定を待たずして、寿衛は亡くなってしまいます・・・
命名後、富太郎が寿衛のお墓にスエコザサを植えたというエピソードも残っています。
牧野富太郎が作った標本
牧野富太郎は、生涯に約40万枚という、ものすごい数の標本を作成しました。約40万枚と言われていますが、貧しいために売却したものや、虫害などにより破棄となったものもあり、実際はさらに多かったはずです。そして、牧野富太郎が活躍した時代には、交通機関も十分に発達していなかったので・・・本当に超人的な数と言えます。
現在、その膨大な標本たちは、東京都立大学牧野標本館へ寄贈され、保管されています。
東京都立大学 牧野標本館
牧野標本館に保管されている標本は、研究目的の閲覧が主のようですが、企画展がおこなわれており、期間限定で牧野富太郎の標本も一般公開されているようです。
とはいえ、牧野標本館へ行くことができないという人へおすすめしたいのが、「画像データベース」の閲覧です。牧野富太郎が作った標本が、ネットで見ることができます。ぜひ実際の標本を見てみてください!
東京都立大学牧野標本館所蔵 牧野標本館タイプ標本データベース
牧野富太郎が作った植物図鑑
牧野富太郎は、生涯に数多くの植物図鑑をつくりました。
最初に作った図鑑は『日本植物志図鑑』は、自分で絵を描き、印刷技術を学び、自費で発行しますが、未完で終わります。
その後、新しく『大日本植物志』を大学より発行しますが、未完で終わります。
次の3つの図鑑は、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧ができますので、ぜひ見てみてください。
『新撰日本植物図説(第2巻第2集)』 (牧野富太郎著、敬業社、1903年)
『日本高山植物図譜(第1巻)』 (三好学・牧野富太郎 共著、成美堂、1907年)
『日本高山植物図譜(第2巻)』 (三好学・牧野富太郎 共著、成美堂、1907年)
以降も数多くの図鑑や書籍を作ります。今では考えられませんが、それ以前は、植物図鑑にも関わらず、文章のみの説明で植物画のない図鑑が主流でした。
その中でも、富太郎78歳の頃に発刊した『牧野日本植物図鑑』(北隆館、1996年)は、現在でも発売されており、実際に購入することができます。『原色牧野日本植物図鑑全3巻』は『牧野日本植物図鑑』のイラストに色付けをしたものです。
牧野富太郎の植物図鑑についてもっと知りたいという人へ、デジタル閲覧可能な図鑑や購入可能な図鑑、ぐるり個人のおすすめ図鑑などこちらの記事で紹介しています。
牧野富太郎の図鑑以外の本についてはこちらの記事でまとめています。
牧野富太郎の年譜
富太郎の主な業績と出来事を中心に、年譜をまとめてみました。
(長いです…簡潔にしたかったのですが、無理でした…)
1862年 | 0歳 | 4月24日、現在の高知県高岡郡佐川町に生まれる。 |
1868年 | 6歳 | 父(1865年)、母(1867年)、祖父(1868年)を亡くし、祖母に育てられる。明治維新。 |
1874年 | 12歳 | 佐川小学校に入学するが、2年で退学する。 |
1876年 | 14歳 | 江戸時代の医師・小野蘭山著「重訂本草綱目啓蒙」などを愛読する。 |
1877年 | 15歳 | 佐川小学校の臨時教員となる。(2年で退職する) |
1880年 | 18歳 | 高知中学校教員・永沼小一郎と知り合い、共に植物学を学ぶ。 |
1881年 | 19歳 | 初めての上京。顕微鏡や書籍を購入し「第2回内国勧業博覧会」見物。文部省博物局に田中芳男らを訪ねる。自由民権運動に携わる。 |
1884年 | 22歳 | 二度目の上京。現・東京大学理学部植物学教室へ出入りし、研究に没頭。これより1893年頃まで東京・高知を往復し生活する。 |
1886年 | 24歳 | 石版印刷術を習得する。 |
1887年 | 25歳 | 『植物学雑誌』を創刊。祖母死去。 |
1888年 | 26歳 | 『日本植物誌図篇』の刊行を自費で始める。寿衛と暮らし始める。 |
1889年 | 27歳 | 『植物学雑誌』に大久保三郎と新種ヤマトグサを発表、日本で初めて学名をつける。 |
1890年 | 28歳 | 寿衛と結婚。水草ムジナモを発見。植物学教室に出入りができなくなり、ロシア行きの計画を立てる。 |
1891年 | 29歳 | マキシモヴィッチ博士死去し、ロシア行きの計画が中止となる。高知の実家の家財整理をおこなう。 |
1893年 | 31歳 | 東京帝国大学理科大学助手となる。 |
1894年 | 32歳 | 日清戦争。 |
1900年 | 38歳 | 『大日本植物誌』刊行。 |
1909年 | 47歳 | 横浜植物会創立、指導にあたる。新種のヤッコソウを発表。 |
1912年 | 50歳 | 東京帝国大学理科大学講師となる |
1916年 | 54歳 | 池長孟(はじめ)氏の援助により経済的危機を脱し、神戸に池長植物研究所をつくる。『植物研究雑誌』を自費で創刊。 |
1919年 | 57歳 | 北海道産のオオヤマザクラの苗100本を上野公園に寄贈。 |
1926年 | 64歳 | 現在の東京都練馬区東大泉(練馬区立牧野富太郎記念庭園)に家をかまえる。 |
1927年 | 65歳 | 理学博士の学位を受ける。新種のササを発見。 |
1928年 | 66歳 | 妻・寿衛55歳で死去。新種のササをスエコザサと命名。 |
1929年 | 67歳 | 満州事変。 |
1934年 | 72歳 | 『牧野植物学全集』刊行。 |
1935年 | 73歳 | 岡山・広島・鳥取県の三県植物採集会を指導。 |
1937年 | 75歳 | 『牧野植物学全集』により朝日文化賞を受賞。 |
1939年 | 77歳 | 東京帝国大学講師辞任(勤続47年)。 |
1940年 | 78歳 | 研究の集大成『牧野日本植物図鑑』発行 ※現在も販売中。 |
1941年 | 79歳 | 民間アカデミー国民学術教会より表彰。太平洋戦争勃発。 |
1945年 | 83歳 | 東京大空襲、太平洋戦争終戦 |
1948年 | 86歳 | 昭和天皇に植物学をご進講。 |
1949年 | 87歳 | 大腸カタルで危篤となるが奇跡的に回復。 |
1951年 | 89歳 | 第1回文化功労者に選ばれる。 |
1953年 | 91歳 | 東京都名誉都民となる。 |
1954年 | 92歳 | 肺炎となり静養が続く。 |
1957年 | 94歳 | 1月18日、永眠。従三位勲二等旭日重光章および文化勲章が授与される。 |
1958年 | 没後1年 | 高知県立牧野植物園開園。東京都立大学理学部牧野標本館開館。練馬区立牧野記念庭園開園。 |
2022年 | 生誕160年 |
ロシア行きを計画していたことに驚きました。もし、ロシアに行っていたら、どのような人生になっていたでしょうか? 富太郎にロシアでの植物採集と植物園での仕事を、という手紙のやりとり(東京の教会からマキシモヴィッチ宛て)も残されています。ロシアで植物学を極めていたでしょうか。
牧野富太郎は、とてつもなく貧乏だった
植物に没頭するあまり、研究にかけるお金は一切おしまず、とても貧乏でした。
東京帝国大学の助手になる以前は、研究のための費用だけでなく、生活費にかかるお金もすべて、実家からお金を送ってもらっていました。最終的には、実家の酒屋は潰れてしまいます・・・。
妻・寿衛と結婚してからも、ずっと貧乏暮らしでした。借金を重ね、借金取りが来ることもしばしば・・・いつも妻・寿衛が対応していました。借金取りが来ている時は、玄関に赤い旗をかかげて、帰らないようにと富太郎に知らせていた、というエピソードも残っています。そして、家賃の支払いが滞り、引っ越しをすること30回あまり・・・つまり、夜逃げが30回ということになるのでしょうか。信じられない回数です。寿衛は、そんな富太郎のことを「道楽息子」と冗談で言っており、非常に器の大きな女性だったようです。
富太郎が54歳になった頃、ついに借金で首が回らなくなってしまい、大切な標本を海外に売る決心をしました。その苦しい決意を知った神戸の池長孟(はじめ)が、富太郎の援助を申し出、借金を全額返済した、というものすごいエピソードも残っています。池長の存在がなければ、富太郎の標本は海外へ売られ、研究も十分にできなかったかもしれません。
最終的に、当時のお金で3万円ほど、現在でおそらく1億円ほど、借金が膨らんでいたそうです。 池長氏が2万だか3万だかの借金を返済してもらったという富太郎の言葉が自叙伝に残っているのですが、2万と3万とでは金額が全く異なります。 富太郎の恐ろしい金銭感覚が垣間見ます・・・
特に、寿衛の心労は大変なものだったのではないでしょうか。(夫婦仲は良かったようです)
研究のためとはいえ、お金の使い方については、非常に理解が苦しい面が多く・・・。植物や研究以外のことは見えなくなってしまうほど没頭していたようで、狂気的な情熱のように感じてしまいます。
牧野富太郎の家族、妻と子どもたち
妻・寿衛との出会いは、富太郎の一目ぼれでした。 富太郎が26歳、寿衛(15歳頃)と一緒に暮らし始めます。約10歳離れた年の差婚でした。
同棲生活をスタートしますが、すぐに結婚できなかったのは、故郷高知に妻・猶(なお)という存在の女性がすでにいたためです。寿衛は後妻ということになるでしょうか。前妻・猶のことについては、ほとんど何も残されていません。猶と結婚し、実家の作り酒屋のことはすべて猶に任せ、富太郎は東京で研究に没頭し、お金が尽きれば送金を頼み、そして寿衛との暮らし・・・ 富太郎なりに不憫に思い、何も語らなかったのかもしれませんね。
その後、猶とは離婚し、寿衛と結婚します。子どもは13人生まれ、そのうち7人が亡くなりました・・・。
寿衛は、非常に献身的に富太郎を支えました。富太郎がこれほどまでに植物に没頭できたのも、寿衛の存在が大きかったようです。将来、標本館や植物園を作ることが寿衛の夢でした。この夢は、富太郎が亡くなって1年後に叶います。
寿衛亡き後は、娘(次女)の鶴代が、富太郎の研究のサポートをおこないました。貧乏生活ではあったものの、富太郎はとてもユーモラスな性格で、日常は笑いが絶えないことが多かったようです。富太郎の娘・鶴代から見た、父・富太郎のおちゃめで、はちゃめちゃなエピソードなども残されています。
娘(鶴代)が語る父・富太郎のエピソードは『牧野富太郎 牧野富太郎自叙伝』で読むことができます。
また、富太郎のひ孫・牧野一浡(かずおき)さんは、現在、牧野記念庭園の学芸員をされています。 生まれたとき、富太郎は83歳で東大泉のご自宅で一緒に暮らしたそう。
練馬区観光情報サイト「とっておきの練馬」ではインタビュー記事が掲載されています。 ご本人の写真、貴重な家族写真や当時のエピソードなど、見ごたえ・読みごたえが十分にあります。
ねりま人#130 牧野一浡さん(牧野記念庭園学芸員)|特集記事|とっておきの練馬
牧野富太郎ゆかりの地
牧野富太郎ゆかりの地を紹介します。高知・東京・神戸で、富太郎が残したたくさんの物たちと会える、おすすめのスポットを紹介します。
高知
牧野富太郎は高知に生まれ育ち、ほぼ独学で植物を学びました。
・高知県立牧野植物園
日本で植物学者の名が付いた植物園は、きっと牧野植物園だけではないでしょうか。
ウェブサイト:高知県立牧野植物園
・高知県 金峰神社
牧野博士が幼少の頃、この神社の境内でバイカオウレンなどの植物を採取したといわれています。バイカオウレン開花は2月頃です。
住所:高知県高岡郡佐川町甲1896
・高知県 牧野公園
牧野富太郎が贈ったソメイヨシノの苗を植えたことより、桜の名所となりました。
ウェブサイト:牧野公園
・高知県 牧野富太郎ふるさと館
生家跡地。牧野富太郎愛用の植物採集道具や直筆の手紙、原稿などが展示されています。
ウェブサイト:牧野富太郎ふるさと館
東京
富太郎が上京し、94歳で亡くなるまで、東京を拠点とし植物の研究に没頭しました。
・練馬区立牧野記念庭園
64歳頃から94歳まで過ごした自宅跡。書斎や庭などが一部当時のままに残されています。スエコザサも見ることができます。
ウェブサイト:牧野記念園情報サイト
・東京都立大学 牧野標本館
牧野富太郎が採集した植物標本を中心に、約50万点の標本が所蔵されています。
ウェブサイト:東京都立大学 牧野標本館
・小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)
牧野富太郎の研究拠点地でした。一般公開はされていますが、大学の教育・研究施設のため、珍しい植物がたくさんあります。
ウェブサイト:小石川植物園
神戸
・会下山小公園(えげやまこうえん)
牧野富太郎を援助した池長孟が設立した「池長植物研究所」の跡地にある公園。牧野植物研究所跡の碑があります。
住所:兵庫県神戸市兵庫区会下山町2丁目11
おわりに
2023年春から始まる、朝の連続テレビ小説『らんまん』の予習をかねて、植物学者・牧野富太郎の生涯をまとめてみました。
牧野富太郎の植物に対する深い愛がある一方で、研究に熱中したがゆえの、苦しい貧乏生活があったことに驚きました。そして、富太郎の功績は、妻・寿衛や家族のサポートと理解があってこそなのだと思います。
朝ドラでは、どんな牧野富太郎が描かれるのか、楽しみです!
参照
参照ページ:牧野記念庭園情報サイト
参照ページ:高知県立牧野植物園
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