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『救いとは何か』森岡正博・山折哲雄 ー 神なき時代に「救い」について改めて考えてみる

どんな本か

 哲学者の森岡正博さんと宗教学者の山折哲夫さんの対談を通して生と死の問題や救いの問題を今の現代社会に合った形で追求していくことを目的にした本です。

 宗教が信仰されにくい現代の中で神や仏といった言葉を使わずにこの問題を考えていくことは、本当に難しいことだと思います。しかし、お二人は宗教を信じている人が少ない現代だからこそ、あえてその困難な道のりを進む必要があるのだと考えておられます。

著者について

著者の二人のプロフィールを巻末から引用しておきます。

森岡正博 もりおか・まさひろ

1958年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得(倫理学)。早稲田大学人間科学部教授。哲学者。生命学を提唱し、人文諸学を大胆に横断しつつ、自らを棚上げすることなく思考を展開している。

山折哲夫 やまおり・てつお 

1931年生まれ。東北大学文学部印度哲学科卒業。国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教授、同センター所長などを歴任。宗教学者。

『救いとは何か』の読み方

 『救いとは何か』を読んでいくと、「生きることや死ぬこと、それをどうやって肯定していけるか」ということが、現代の中で「生と死」や「救い」の問題を考えていく上でとても重要なテーマだということが対話が進むにつれてわかってきます。

 そのテーマに行き着くまでに森岡正博さんと山折哲夫さんは、現代社会で実際に起こった事件や文学作品、映画など、さまざまなジャンルを例にあげながら、それをヒントにして対話を深めていきます。

 たとえば、映画のゴジラや文学作品では夏目漱石や宮沢賢治の作品など、知っていたり聞いたことのある作品がいくつも出てくるので、この本のテーマ自体は難しいにもかかわらず共感しながら読み進めていくことができました。

信仰や鎮魂という感覚はどこから来るのか

 それではここからは『救いとは何か』の中で印象的だった部分を取り上げながら紹介していきたいと思います。

 まずは、私たちが普段するような「祈る」という行為を問う場面を紹介します。

 宗教的な言葉を用いずに「生」や「死」や、「祈り」や「救い」がどういったものかを考えていくには私たちが日常の中で何気なくしている行為や感じ方を改めて問い直して考えていく必要があります。

 その例を一つこの『救いとは何か』の中から引用しながら紹介していきます。

 私はあの世があるとも、超越神がいるとも思っていないけれど、何かを信仰するという在り方そのものは、実感として納得できる。それ自体が不思議なんです。鎮魂という感覚も分かる。人が死んだら魂が体から抜け出し、お彼岸になればその魂が現世に戻ってくるという、そのことに全くリアリティはないにもかかわらず、魂を鎮めるという感覚は分かるわけです

 まずここでは宗教を信じていない、という前提から森岡正博さんは話されています。神や仏などの存在は信じないけれども、不思議なことに魂への畏敬の念のようなものは自分の中に感覚的にあると言います。

 この部分は森岡正博さんと同じような感覚に思い当たる人も多いのではないでしょうか。私も神社やお寺でお辞儀や手を合わせたりはしますし、道端に花が供えてあれば手を合わせたり、頭を下げたりします。

 それは特定の宗教への信仰をしていない人にも少なからず経験のあることだと思います。そういった感覚はどこから来るのか、というのは改めて考えてみると不思議な気がしますよね。

「信ずる宗教」と「感ずる宗教」

 山折哲夫さんはこの感覚への疑問を「信ずる宗教」と「感ずる宗教」というような言葉に分けて回答します。「信ずる宗教」というのは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のような一神教に顕著な特徴で、以下のように説明されています。

 イスラエルのような砂漠の地に暮らす一神教の民にあっては、彼らが信ずる「天上の彼方にあるもの」を信じるか否か、ということです。だから、これは「感じる、感じない」という関係ではないと思う。「信ずる宗教」はそこで成立する。キリスト教の根本的な心構えとはそういうものではないかと思う

これは土地や環境というものが、信仰の仕方に影響を与えたというのを指摘しているのだと思います。砂漠というまわりに石と砂しかない厳しい環境の中では、自分以外に頼るべきものは何もありません。だから、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の原型を作ったイスラエルの民は

天上のはるか彼方に価値あるものを求めるしかなかった

 むしろそれ以外に選択肢はなく、天上にいる「誰か」を信じることを選びとってきたということなのだと思います。

 一方、「感ずる宗教」とは次のように説明されています。

 日本列島は気候も温暖で、山の幸、海の幸に恵まれている。そうした豊かな自然によって自分たちの暮らしが支えられているということを骨の髄まで知ってもいる。そこから多神教的な神観念や多元論的な価値観が生まれてくる。「天上の彼方」に価値あるものを求める必要がないため、人間社会と自然の関係が非常に近しいものになるのですね。

 森岡正博さんが疑問に思ったような、ふとしたときにおとずれる信仰や鎮魂の感覚というのは日本という環境や伝統の中で培われてきたものだと山折哲夫さんは説明されています。

 神や仏や天国や浄土を信じていないけれども、何かに手を合わせるという一見、矛盾したような行為は自分の中でモヤモヤする部分があったのですが、この「感ずる宗教」の説明で腑に落ちるところがありました。

宮沢賢治からたどる死への肯定感

 個人が死を意識したときに救われるためにはどのようにすればいいのか?ということについて、森岡正博さんと山折哲夫さんは宮沢賢治の文学作品をいくつか題材にして、対話を進めていきます。

 その一つに宮沢賢治の『なめとこ山の熊』を取り上げていて、簡単にこの童話のあらすじを書くと、”生計のためにやむなく熊を殺す熊うちの名人(小十郎)が、やはり、やむなく人を殺す熊のために命を落とす”というお話です。

 この話の中で熊と小十郎の二つの死がそれぞれ描かれています。山折哲夫さんはその二つの死に触れています。

動物と人間は対等であって、人間が動物を殺して食べても構わないが、それと同じように動物も人間を襲っても構わない

小十郎と熊の二つの死がここでは対等に描かれていると言います。ここには宮沢賢治の人間の動物に対する優位性はなく、生きとし生けるものはみな平等なんだ、という意思が感じられる気がします。

 森岡正博さんは小十郎と熊の二つの死について、もう一歩深く対話を進めていくために、それが自己肯定できた死ではないかという考えを述べていきます。

 熊は小十郎に鉄砲を突きつけられたとき、「もう2年ばかり待ってくれ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事もある」と言って見逃してもらいます。2年後、熊は約束通り、小十郎の家の前に血を吐いて死んでいました。

 小十郎もその後、山に猟に出かけたときに大きな熊に襲われてしまいます。死にゆく小十郎の顔は「笑っているようにさえ見えた」のだと『なめとこ山の熊』には書かれています。熊に殺される、という事実だけをとってみれば、悲惨な死のように思えます。それなのに、なぜ殺されたのに笑っているように見えたのでしょうか? 森岡正博さんはその理由について次のように小十郎が自らの死を自己肯定できたからだと分析しています。

熊の言葉が分かるほど熊好きな小十郎にとって、それは罪悪感となっておりのように溜まっていたと思うのですね。そういう小十郎が自己肯定して死ねる方法の一つが、これまで散々殺してきた相手の手にかかって殺されるということではなかったかと思うのです

 つまり熊も小十郎もお互いが、自分が望んだ形の死を迎えられたということです。このあたりを読んでいると自己肯定できる死とは、自分の生き方に整理をつけられるかが重要なように思えます。

 熊の場合は死ぬことに関してはすでに自分の中で気持ちの整理はできていたのでしょう。ただ、現実的な身辺の整理に時間が必要なのでした。

 小十郎の場合は、熊を殺してきたことが自分の人生の負債のように重荷になっていました。それが殺してきた熊に殺されることによって自らの罪悪感という負債を清算できる唯一の手段だと感じたのだと思います。だからこの死は内面的な生き方の整理ができたため本人にとって一つの「救い」となって死を肯定できたということなのでしょう。

 かつての宗教はそうした死への肯定感を与える役割を長く担ってきましたが、近代になって宗教のそうした役割はほとんど機能しなくなってきました。

 だから、私たちは宗教とは別のところで「救い」への険しい道を見つけなければならなくなっています。この宮沢賢治の『なめとこ山の熊』の熊と小十郎のように、それぞれが死への肯定感を持てるかというのが「救い」のポイントになってくるのだとこの本を読んでいて強く感じました。

神なき時代に「救い」について改めて考える

 この哲学者と宗教学者の対談が最終的にたどり着いた「救い」や「命」というものの考え方については、ぜひこの『救いとは何か』を最後まで読んでみてください。

 生と死の問題、そして個人個人がニーチェ以降の神なき時代にどうやって救われていけばいいのか、という問題について、新しい見方や考え方を拡げてくれる一冊になると思います。

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900) ー 著作『ツァラトゥストラはこう言った』の中で「神は死んだ」という有名な言葉を残した。19世紀の科学の進歩によって当時の人々の既存の価値観は大きく変化していた。それまでのキリスト教に依存した価値観の転換が必要であることをニーチェは指摘した。

他の本や映画の感じ方がが変わるかも

 『救いとは何か』では、宮沢賢治以外にも小説や映画、宗教者の言葉などさまざまなジャンルから引用しながら二人は対談を進めていきます。そうした引用がときに対談のテーマを掘り下げる重要な役割をしています。

 そういう場面を見ていると、哲学的なテーマや宗教的なテーマを扱うとしても、気づきやヒントはいろいろなところに散らばっていることがわかりました。ちょっと目線を変えるだけでも映画や小説の読み取り方はこんなにも違ってくるのだと思うと、過去に読んだり見たことのある作品でももう一度見返したくなりました。

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